わたくしの生存証明とも言うべき企画スピイクスリリイ。第四回の出題者はヒビノアワのCHEEBOWさん。お題は《おとっときの一冊》である。いつものようにスピイクスリリイのまとめサイトのバナーを貼らせていただく。
前回もそうだったが、今回のテーマも私にはとても難しい。「おとっときの一冊」がとっさに思い浮かばない。どちらかと言うと辞書・辞典の愛好家なので『類語大辞典』や『図説死刑物語』などが思い浮かぶのだが、これではネタ的に面白くないし、グロいし、私としてもどんなふうに話をふくらませたらよいのか途方に暮れる。
ちなみに子供の頃はまったく本を読まない少年だった。小学校の六年間で読んだ本は『ロビンソン・クルーソー』くらいである。あ。これを書こう。「おとっときの一冊」とは呼べないかも知れないが、七歳から十三歳までのすこぶる多感な六年間は、五十歳から八十歳までの緩やかな三十年間よりも遥かに豊かではあるまいか。その年代を経験したことがないけども、そんな気がするので、そういうことだと断定して話を進めたい。
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少年期の読書なので、どこの出版社だったかまったく記憶にないのだが、いわゆる「少年少女版ロビンソン・クルーソー物語」を読んだのは小学二年生の頃だった。挿絵が妙にリアルで、船が暴風雨に弄ばれるシーンはそうでもなかったが、ロビンソンが無人島の浜辺に打ち上げられ、ばったり倒れている場面には痛く感銘を受けた。おそらく少年愛的肛門期の年頃のせいだと思うのだが、ヒーローが倒れたり死にかけたりするシーンに異常な興奮を覚え、眠るときは必ず、倒れたり死にかけたりする姿勢を取らないと寝つけなかった。
その次に目を惹いたのは、ロビンソンがカレンダーを付けているシーンである。挿絵では洞窟の岩壁みたいなところに鋭利な石片で刻み目を付けていた。これが私にはすごく驚きだった。誕生日とかお正月とか、やってくる日が確定的な「うれしい日」までカレンダーにバツ印を付けた経験ならあるけども、ロビンソンの場合、その「うれしい日」が何であり、いつ訪れるのか未定なのである。子供心にそれは彼の「救出」の日であることは想像できたものの、いつそれがやってくるのか見当がつかないはずだ。なのに、なぜカレンダーを付けるのか。それが不思議だった。
この疑問は大人になってから解決がついた。作者のダニエル・デフォー(子供の頃は原作者も知らなかった)は獄中でこの物語を書いたという。つまりロビンソンは「刑期」を数えていたわけだ。これに関しては「大人になった私」は、自分自身の実感から、なるほどと唸らざるをえなかった。
ちょっとややこしい話になるが、死には二種類ある。ひとつは誰もが知っているご臨終である。どんな人でもいつかは棺桶に入らなければならない。これはどうやら人間さま特有の感情とは言えないみたいで、たとえば、年老いたゾウが死期を悟ると群れから離れて死に場所へ向かったりする。ゾウの墓場というのは本当にあるらしいのである。またクジラも、シャチに襲われたりすると、群れの中の老クジラがわざと群れから離れてシャチの餌食になって仲間を逃がすという利他的行為をするらしい。人間にかぎらず、死期を悟ったり覚悟したりする動物は多いみたいだ。
この「ご臨終」のほかに、もうひとつ、日々死にゆく感情というものがある。三十年生きたということは、三十年の命が死んだということだ。私たちはいつ死ぬか予測できないので、とりあえず、どれくらい生きたかを気にかける。「もう六十だ」という人にも実はまだ三十年ほどの寿命があるかも知れないし、「まだ二十歳だ」という人が次の日に事故で死んだりする。そんなふうに未来はまったく予測できないから、とりあえず、はっきりしている「命の消費量」を目安に人生を考えるしかない。「もう秋だね」とか「もう三十だよ」とか、そんなことは子供の頃には考えもしなかった。私の友達にも「いやあ、あっという間に年末だよ」とか「ぼんやりしてたら小六だったぜ」などと言うヤツはいなかった。これは明らかに、日々が過ぎるということは命が消費されることだ、と知っている大人の台詞である。
そんなわけで、ロビンソンのカレンダーの不思議は大人になってから自分なりに謎が解けた。いつ救出されるか分からないが、この無人島で過ごさなければならない日々を数えることは、自分の命の消費量を知る上で意味がある。獄中のデフォーもそんな心境だったのだろうが、子供の私にはとにかく不思議な行為だった。
以上、思いつくままに書いてみたのだが、書いていくうちに改めてロビンソン物語を読んでみたくなった。紹介させていただいた『ロビンソン・クルーソー痛快世界の冒険文学』は著者が伊集院静、編集が井上ひさし・椎名誠・里中満智子などなどの異色のメンツなのできっと面白いと思う。
というわけで、次なる語り手である
我楽のBorderさんにバトンタッチ。
