
カフェソネスの姉妹店イコネ(憩根)が開店5周年を迎えたそうで、梅雨の晴れ間の昼下がり、タダ酒チケットをもらったので一杯やってきた。
昼のピーク時を終えて心地よく閑散とした店内。客はカウンターですでに出来上がっている友人のP子ひとりだけ。真昼の酩酊こそがサウスジャパン、博多ラテン区のトレンドなのである。なのか?
タダ酒のワインを愛犬にも舐めさせながら(うちの犬はワイン党)のんびりおしゃべりしていたら、スタッフから水羊羹をもらった。さらにダラダラしていたら、右図のパッケージの「おかき」をもらった。でもって帰りぎわにタケノコをもらった。もらってばかりだ。お布施で生きるのはこんな感じなんだろうか。
それはともかく、素晴らしいのは「おかき」である。いや、おかきの味ではなく、パッケージが素晴らしいのだ。右図を見てマーク・ロスコの絵を連想した貴女はぜひメールフォームからご連絡いただきたい。折り返しデートの約束メールをお送りするので。約束だけだが。
和の伝統色を横縞染めしたような配色は、まさにロスコの絵そのものであり、私がロスコに惹かれてしまう理由のひとつは日本人的な色感ゆえの親しみのせいかも知れないと初めて気付かされた。
あなどりがたい「おかき」である。能書きの画像を無断で使わせてもらったおわびに、この「ロスコおかき」の販売元『銀座あけぼの』さんの宣伝をしておきたい。商品名はもちろん「ロスコおかき」じゃなく、「それぞれ」と言うそうな。

敬愛するロスコふうのパッケージを破るのが忍びがたく、おかきはまだ食べていない。夏の夜、茶でも淹れてもらって、和の色の和の味をのほほんと楽しませてもらおう。


久しぶりのエントリ。今月はたった2回しか書いていない。私の場合、マンスリーアーカイヴは不要だな。イヤーリーで充分。
ところで、オリジナルブランドを作ってくれるfactioさんのサイトに、うちの相方もせっせとTシャツ用の図案を送っているのだが、悔しいことに、私なんかより遥かに売れ行きが良いみたいなのだ。カフェ・ソネスの女性スタッフにも人気みたいで、そのスタッフのひとり、ミヨがお買い上げしてくれた金魚Tシャツが昨日、届いた。
淡い色合いや微妙なタッチもきれいに出ていて、グッドな仕上がり。幸いお天気だったのでカフェの中庭でさっそく写真を撮らせてもらった。
それにしてもモデルになってくれたミヨは素晴らしく脚が長いなァと改めて見惚れ、永遠の成長期なのか年々さらに伸びてるなぁとか思いながら、金魚よりも、ジーンズのほどよくセクシィな穴の空き具合に目を奪われて思わず激写。マクロで撮りたかったが、初夏の昼下がり、酒も入っていなかったので、そこまでするノリが足りなかった。


リレー式エントリ企画スピイクスリリイの第5弾は、もそさんからのお題で『理想の恋人』である。
参ったなぁ。またしても難解で赤裸々なテーマである。かなり長く人間をやってきたつもりだが、幼少期から老体の現在に至るまで、私のボキャブラリに『理想の恋人』というフレーズは存在しなかった。お題を頂戴して生まれて初めて考えてみたものの、さっぱり何も思い浮かばない。さて、どうするか。
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付き合った相手はみんな理想的だった──などと言うと「自惚れんじゃないよ」という声が返って来そうだが、私は体質的に惚れやすいらしく、惚れてしまえば必然的に「あばたもえくぼ」になってしまうのが人情ではないか。
理想的だから惚れたのではなく、惚れた相手だから理想的に見えるという図式。これまで一度も『理想の恋人』について妄想を逞しくしたことがなかったのは、そういうカラクリゆえではなかったかと自己分析してみる。
好みのタイプがないわけでもないが、タイプなんて或る種の「刷り込み」のようなものだろう。文学と恋愛の達人だったゲーテ先生は、なぜか斜視の女性に惹かれてしまう自分を不審に思い、幼少期のおぼろな記憶を懸命に探ってみたところ、ある日、幼い自分を世話してくれた乳母が斜視だったことを思い出した。刷り込みの原因が分かってしまってからは斜視の女性に心惹かれることはなくなったという。
にもかかわらず、ゲーテ先生はその後も性懲りもなく一目惚れを繰り返している。いろんなタイプの刷り込みを抱えていらっしゃったのだろう。しかし斜視の女性の究明以来、その後の刷り込みについてタネ明かしをやった形跡がない。おそらく、いちいちタネを明かすのは恋の醍醐味を損なうと判断したのかも知れない。のぼせないと高揚していかない恋という感情を心理学的に分析するなんて不粋であるということだろう。
ということはつまり『理想の恋人』とは何かを考える行為は、自家中毒というか、自分自身による自分への刷り込み行為であると同時に、あまりに分析的過ぎると恋への冷却作用が働くというパラドキシカルなキーワードということになる。
恋への憧れとして『理想の恋人』の妄想を逞しくする人もいれば、恋への自己防衛としてそれを冷却作用に活用する人もいるということで、そのあたりは実に分かりやすいベタな人間心理、ヘボな脚本家が良く使うパラドックスでもある。
ちなみに私は「理想の恋人」という言葉には馴染みがないけども、五年ほど前に「季節の恋人」ということなら考えたことがあった。
ちょうどその時期、父が病に倒れ、痴呆症というわけではないのだが、かなりの部分の記憶を喪失した。そして、何を思ったか、父は突然、再婚したのである。その相手はこれまでの父の恋人とはまるで違うタイプで、金儲けに血眼で、中洲遊びに明け暮れて、洒落たスーツでクローゼットをいっぱいにしていた快楽主義な父が選ぶ相手としては、かなり地味な女性、酒もグルメもファッションも知らない、根っからの奉公人タイプの、息子からすれば「親爺、気は確かか?」と問いただしたくなるような、つまりとても世話好きな良い人なのである。
少年期、青年期、熟年期、老年期、それぞれの季節にふさわしい恋人がいて、さらには活動期もあれば休眠期もあったり不遇期もあったりで、おりおりの季節にふさわしい恋人がいるのかも知れんな、といったことを漠然と考えたりしたものだ。
それらの季節をひとりの恋人で賄う一穴主義者(失礼)もいれば、季節ごとに衣替えする人もいるわけで、そこのところはまあ人それぞれである。
ということで「理想の恋人」とは「季節の恋人」である、と無理やり結論づけて、次の語り手である
lomoさんにバトンタッチ。



わたくしの生存証明とも言うべき企画スピイクスリリイ。第四回の出題者はヒビノアワのCHEEBOWさん。お題は《おとっときの一冊》である。いつものようにスピイクスリリイのまとめサイトのバナーを貼らせていただく。
前回もそうだったが、今回のテーマも私にはとても難しい。「おとっときの一冊」がとっさに思い浮かばない。どちらかと言うと辞書・辞典の愛好家なので『類語大辞典』や『図説死刑物語』などが思い浮かぶのだが、これではネタ的に面白くないし、グロいし、私としてもどんなふうに話をふくらませたらよいのか途方に暮れる。
ちなみに子供の頃はまったく本を読まない少年だった。小学校の六年間で読んだ本は『ロビンソン・クルーソー』くらいである。あ。これを書こう。「おとっときの一冊」とは呼べないかも知れないが、七歳から十三歳までのすこぶる多感な六年間は、五十歳から八十歳までの緩やかな三十年間よりも遥かに豊かではあるまいか。その年代を経験したことがないけども、そんな気がするので、そういうことだと断定して話を進めたい。
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少年期の読書なので、どこの出版社だったかまったく記憶にないのだが、いわゆる「少年少女版ロビンソン・クルーソー物語」を読んだのは小学二年生の頃だった。挿絵が妙にリアルで、船が暴風雨に弄ばれるシーンはそうでもなかったが、ロビンソンが無人島の浜辺に打ち上げられ、ばったり倒れている場面には痛く感銘を受けた。おそらく少年愛的肛門期の年頃のせいだと思うのだが、ヒーローが倒れたり死にかけたりするシーンに異常な興奮を覚え、眠るときは必ず、倒れたり死にかけたりする姿勢を取らないと寝つけなかった。
その次に目を惹いたのは、ロビンソンがカレンダーを付けているシーンである。挿絵では洞窟の岩壁みたいなところに鋭利な石片で刻み目を付けていた。これが私にはすごく驚きだった。誕生日とかお正月とか、やってくる日が確定的な「うれしい日」までカレンダーにバツ印を付けた経験ならあるけども、ロビンソンの場合、その「うれしい日」が何であり、いつ訪れるのか未定なのである。子供心にそれは彼の「救出」の日であることは想像できたものの、いつそれがやってくるのか見当がつかないはずだ。なのに、なぜカレンダーを付けるのか。それが不思議だった。
この疑問は大人になってから解決がついた。作者のダニエル・デフォー(子供の頃は原作者も知らなかった)は獄中でこの物語を書いたという。つまりロビンソンは「刑期」を数えていたわけだ。これに関しては「大人になった私」は、自分自身の実感から、なるほどと唸らざるをえなかった。
ちょっとややこしい話になるが、死には二種類ある。ひとつは誰もが知っているご臨終である。どんな人でもいつかは棺桶に入らなければならない。これはどうやら人間さま特有の感情とは言えないみたいで、たとえば、年老いたゾウが死期を悟ると群れから離れて死に場所へ向かったりする。ゾウの墓場というのは本当にあるらしいのである。またクジラも、シャチに襲われたりすると、群れの中の老クジラがわざと群れから離れてシャチの餌食になって仲間を逃がすという利他的行為をするらしい。人間にかぎらず、死期を悟ったり覚悟したりする動物は多いみたいだ。
この「ご臨終」のほかに、もうひとつ、日々死にゆく感情というものがある。三十年生きたということは、三十年の命が死んだということだ。私たちはいつ死ぬか予測できないので、とりあえず、どれくらい生きたかを気にかける。「もう六十だ」という人にも実はまだ三十年ほどの寿命があるかも知れないし、「まだ二十歳だ」という人が次の日に事故で死んだりする。そんなふうに未来はまったく予測できないから、とりあえず、はっきりしている「命の消費量」を目安に人生を考えるしかない。「もう秋だね」とか「もう三十だよ」とか、そんなことは子供の頃には考えもしなかった。私の友達にも「いやあ、あっという間に年末だよ」とか「ぼんやりしてたら小六だったぜ」などと言うヤツはいなかった。これは明らかに、日々が過ぎるということは命が消費されることだ、と知っている大人の台詞である。
そんなわけで、ロビンソンのカレンダーの不思議は大人になってから自分なりに謎が解けた。いつ救出されるか分からないが、この無人島で過ごさなければならない日々を数えることは、自分の命の消費量を知る上で意味がある。獄中のデフォーもそんな心境だったのだろうが、子供の私にはとにかく不思議な行為だった。
以上、思いつくままに書いてみたのだが、書いていくうちに改めてロビンソン物語を読んでみたくなった。紹介させていただいた『ロビンソン・クルーソー痛快世界の冒険文学』は著者が伊集院静、編集が井上ひさし・椎名誠・里中満智子などなどの異色のメンツなのできっと面白いと思う。
というわけで、次なる語り手である
我楽のBorderさんにバトンタッチ。



なんと1ヶ月半ぶりのエントリ、季節も夏から秋にかわり、いまや季刊誌のような有り様だ。巷では「失踪したらしい」とか「隠遁じゃないの?」とか「いや還暦だろう」とか言われながら、ありがたいことに下記バナーの企画のおかげで、否応なく(イヤじゃないです)定期的に生存報告できる幸せを感じている。
第3回のお題は、lomoさんの出題による下記のようなもの。
『私は如何にして心配するのを止めて結婚する(しない)ようになったか』
ううむ。本音で語らざるをえない厳しいお題だなぁ。ろくでなしな私の実態が赤裸々になってしまう。一般論でかわすこともできるんだが、そんな茶を濁すようなエントリでは、「この『speakslyly』というテキストリレー企画に参加したきっかけが参加者の皆さんと新しい交流ができればいいなぁと思ったからでした。そのためには己をさらけ出しお互いを知るのがいいのではないか」というlomoさんの意向にそぐわないし…。
うだうだ言ってないで、潔く「己をさらけ出し」てみようと思う。
ほんのちょっとだけ(いさぎわるい)
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結論から言うと私にとって結婚は、死語であり、死んだ風習である。独身主義がいいと言ってるんじゃなく、男と女の共同生活という面では、結婚も同棲もなんら違わないだろうという意味で、そう思っている。最初の同棲は中学2年の頃で、以来、ウン十年間、相手は違えど、常に誰かと暮らしてきた。懲りないヤツだ。女好きであり、我ながら馬鹿だと思う。ゲンズブールの「女は嫌いだ。それなしではやっていけないから」という台詞を座右の銘にしているわけじゃないんだが。
とはいうものの、学生の頃に一度だけ結婚し、すぐに子供をもうけた。断わっておくけど(別に断わらなくてもいいんだが)できちゃった結婚ではなく、計画出産である。子を持つ親の心境とはどんなものか知りたかったし、この世に自分の係累をひとりくらい残したいと思ったし、子供の成長とともに変化するだろう長いかかわりを体験してみたかったからだ。ろくでもない判断ばかりしてきたが、この判断だけは正しかったと思っている。おかげでのその関係は私に多くの喜びをもたらし、いまももたらしてくれている。
この一回きりの結婚生活を振り返っても、同棲と違わない、というのが私の実感だ。その生活はパリのクリシー街の小さなアパルトマンで始まり、二十年後、南仏のモンペリエで終わった。娘(子供)が成人するまでの二十年間、まるで計算したかのように(元妻さんからは「計算したんでしょ」と厭味を言われるが)じっくりかかわらせてもらった。絵描きという零細自営業ゆえに、それに私はお世辞にも働き者じゃないゆえに、娘と一緒に過ごした時間はとても長い。
ちなみに元妻さんも日本人だったので、つまり互いの親族は遥か遠い日本にあり、義理の両親への年末年始のご挨拶とか免除される立場だったのも、結婚も同棲も同じという私の感覚が修正されずにここまできた一因なのだろう。
もう一つ付け加えるならフランスの婚姻には「入籍」という言葉はない。というか、儒教の影響だろうが、一家の長が戸籍筆頭者になるという制度は世界中で日本と韓国だけであり、その他の国では夫婦といえど、それぞれが戸籍筆頭者である。役所へ行けば、元妻さんは窓口の係員から旧姓で呼ばれる。ファイリング上そうなっていて、彼女の戸籍は彼女の旧姓のイニシャルであるSの窓口が扱う。警察署だの移民局だの、やたらと役所に呼び出される機会の多い外国人滞在者ゆえ、ツガイではなく個人、という念を押すようなこの扱いの繰り返しは、結婚も同棲も変わらん、という私の感覚をさらに補強してしまったように思える。
そんなわけで、人との暮らし(相手が恋人であれ子供であれ親であれペットであれ)は歳月を重ねるほどに抜き差しならない大きな意味があるのを認めるけども、結婚という約束ごとに関しては、それでもって「心配するのをやめて」というほどのターニングポイントとして重大だとは私は感じない。正論を言っているつもりはなく、幸か不幸かそんなふうに生きてしまった自分の人生の来歴から、そうとしか言えんなぁという話であって、広く啓蒙する気はぜんぜんない。
ついでに言えば、きょうまで生きてきて、自分のことを「心配」した経験があんまりない。生きる上での煩わしさや退屈さなら毎日のように感じているけども、心配という感覚は、自分以外の他者、娘や恋人や親や元カノや愛犬などの、「自業自得だろ」という一言では片付けられない愛すべきものたちにしか抱けない。我が身に関してなら、どんな目に遭おうと「自業自得」である。「心配」なんて言葉はこんなリスキーな生き方をしている自分が使うのは筋違いだと思っている。まわりから「だったらもっと堅実に生きろよ」と叱られるだろう。
以上、lomoさんからのお題を反語的に使わせてもらって、自分なりに少しは「己をさらけ出し」たつもりだが、「いいや、まだまだ」とか言われたら、これ以上は無料じゃイヤなので、すみやかにバトンを
CHEEBOWさんにお渡ししたいと思う。



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