サンタクロース文化圏
カタチ本宅のカバーフォトをノエル(クリスマス)バージョンに更新した。
といってもギリシアの島の小さな教会の写真に替えただけで、しかも、またしてもそれが何処の島だったか記憶にない。アテネから近海クルーズのフェリーに乗り、エギナ、ポロス、イドラの三つの島を巡った。そのどれかである。写真を見てお心当たりのある方はメールフォームからこっそり教えていただけるとありがたい。
ちなみにアテネはお世辞にも見目麗しい都市ではなかった。
先のオリンピックでも問題になったが、光化学スモッグがひどいのである。最大の収入源が観光産業であり、歴史のあるお国柄ゆえ、地面を掘れば遺跡がごろごろ出てくる。それらは観光の目玉商品なので、当然、地下鉄工事より遺跡保存が優先される。旧市街地にしても観光優先で古代からの街並の改造などもってのほか。路面電車も無理だし、地下鉄も発達しないということで、市民の足はやむをえず自家用車に限られてしまうわけだが、その車たちがまたどれも恐ろしく年季が入っているのだ。
私が初めてアテネを訪ねたのはちょうど昭和天皇の崩御の月で、その頃から光化学スモッグの規制対策らしいことはやっていたようだが、その規制たるや、奇数日にはナンバープレートの末尾が奇数の、偶数日には偶数の車しか走るべからずというユニークな、しかし効果のほどが怪しい代物。市民の多くは奇数と偶数の両方のプレートをこっそり所有しており、毎日それを入れ替えているとのことで、まったくの死に法と化していた。
白い(はずの)大理石の街並は、年代物の車の吐き出す排気ガスのせいで灰色にくすみ、遺跡の街というより工業地帯のコンクリート倉庫群のような印象を与えた。アテネ巡りは一日で充分だ。スモッグから逃げ出して、あの青きエーゲの海へ向かうべし、ということで私はすぐさま船に乗り込んだ次第である。
世界中の人々がクリスマスを祝うという迷信ほど激しい迷信はない。非キリスト教圏の人口、アジアや中東、とくにインドや中国という巨大人口地帯を考えてみてほしい。サンタクロースに至っては盛り上がるのは日米韓だけと言っていいだろう。野球みたいなものであり、しかし野球は世界スポーツではない。
ゆえに、個人的なメッセージだが、娘よ。君はもう大人だし、クリスマスプレゼントは無いものと思ってくれ。
厳つい港とクレープ屋
本宅のアルバムを増殖する暇も気力もないので、ここで1枚ずつ写真をアップしながらおしゃべりを。
引き続きブルターニュの話である。上図はサンマロのレストラン。飾り物が可愛かったので思わずシャッターを切ったのだが、改めて見るとそれほど可愛いものでもないな。
サンマロは城塞の港である。いかつい建物が湾を囲み、市庁舎のファサードも厳めしい。重厚で、男くさい街であり、そのせいか、このレストランの飾り物が際立って可愛く見えたのだろう。
それともうひとつ、サンマロは「クレープの街」でもある。このレストランの入り口脇でもクレープを売っていたが、いたるところにクレープ屋がある。男くさい街のクレープ屋。この組み合わせはミスマッチのように思えるが、クレープの起源を考えるとそうでもないことが分かる。
海洋性気候で降雨量の多いブルターニュ地方は、海風のせいで塩分をたっぷり含んだ土壌であり、小麦や大麦の栽培には適さず、蕎麦を作らざるを得なかった。つまり貧しいゆえに、蕎麦粉のクレープ(ガレット)が広まったわけで、このあたりの事情は日本の蕎麦の歴史に似ている。
しかし私はこの蕎麦粉のクレープが苦手だ。私の身元引受人で、フランスにおける私の両親と言ってもいい老夫婦がフランスの歳時の習慣をおりおりに教えてくれるのだが、毎年二月二日のシャンドルール祭(ろうそく祭り)にクレープを食べる習わしがあり、その日が来るとご夫婦の家に招かれて、山のような量の蕎麦粉のクレープを食べなければならない。ざる蕎麦なら好物なんだが、ガレットはちょっとなぁ…。
小麦のクレープなら大好きだ。学生の頃、リュクサンブール公園の前に屋台を出すお気に入りのクレープ屋があった。フロマージュのクレープしかなく、今のような多彩なトッピングはなかったが、このフロマージュが抜群に美味かった。そんな思い出があったので、老夫妻から初めてシャンドルール祭のクレープ・パーティーに招かれたときは喜び勇んで出かけたものだが、伝統どおり、由緒正しく、蕎麦粉のそれを食わねばならないとは想定外だった。もごもごと機械的に噛んでは飲み下しつつ、ブルターニュの男たちは質実剛健だったんだなぁと思ったものである。
さいはての岬
先の話の続きになるけども、一連の写真がたくさん出てきて、どうやらあれは私が撮ったものらしいことが判明した。それに伴って記憶もいろいろ戻ってきた。その中の一枚、北フランスの西のはずれ、フィニテール(地の果て)という寂しい名を与えられた地方の最西端に位置するコンケ岬の風景。
この地方を始め、総じてブルターニュの海は干満の差が激しい。満潮時には時速四〇キロで潮が迫ってくる浜辺もあり、迂闊に浜遊びなどしていたら水死しかねない。それを利用した潮力発電所などもあるらしい。
コンケ岬もそんな危ない浜のひとつで、私が訪ねたときはちょうど干潮時で、小さな漁船の一群が干上がった浜辺に点在し、まるで船の墓場のような光景だった。ところが、浜の近くの寂れたカフェで一杯やっているうちに潮が満ちてきたらしく、小一時間ほどしてカフェを出たときには浜辺はもう浜辺でなくなり、満々と潮をたたえた湾に変貌して、そこに漁船が浮かんでいた。
最初、浜におりて散歩しようと思ったが、カフェの一杯のほうを選んで良かった。誰の小説だったか忘れたが、ブルターニュのどこかの浜辺を舞台にしたミステリーで、月別の干満時刻表のページをこっそり入れ替えて、ある金持ちを水死させるという殺人トリックがあった。えらく不確実な殺害方法に思えたが、コンケ岬の変貌を目の当たりにしたあとでは、確実に殺せないまでも可能性のある手法に思えてきたものだった。
それにしても寂しい岬だった。寂しがり好きにはたまらない場所だ。訪ねたのは晩秋の頃で、大きな台風がフランス全土を横断した直後だった。そのせいか恐ろしい勢いで雲が流れ、ときおり青空が見え隠れするものの、その青みはかぎりなく白に近く、南仏のけばいほどの濃い青空を見なれた私には薄ら寒く感じられた。地場産業は漁猟くらいで、年々過疎化が進んでいるらしく、浜に点在する漁船には廃船も混じっているという。どこの国でも北の暮らしは大変だ。漁に出ることなく満潮時にだけ浮かぶ船に、さいはての寂しい旅情を感じて悦に入っているのは私のような通りすがりの余所者だけだろう。
[追記]
上述のミステリの題名を思い出した。『古い骨』。作者はアーロン・エルキンズ。舞台は世界遺産に指定されたモン・サンミッシェル。
コンケ岬の満潮時の写真が見つかった。
潮が満ち、浜辺はすっかり湾になってしまった。
かつて訪ねた何処か
南仏の地下倉庫に置き去りにしていた古い写真を先日、娘が郵送してくれた。
私は整理下手である。乱雑なりの秩序を保っている人もいるが、私の場合はひたすら乱雑のみで、人生の半分以上の時間を紛失物探しに費やしてきたような気がする。
送られてきた大量の写真にしても乱脈そのもので、日付けもなければ撮影場所のデータなんて残していない。いつ何処で撮ったのか思い出せないものが多々ある。当時の相方も写真が好きだったので、相方が撮ったものも混じっている可能性がある。
この写真もそんな1枚だ。さっぱり記憶にない。奇岩の浜景からするとたぶんブルターニュのカンカールあたりだろうか。晩秋に南仏から最北端のル・コンケの岬まで、途中で迷子になりながら千数百キロあまりを車で走ったことがある。そのときの1枚かも知れない。しかし相方も初冬に仕事でカンカールを訪ねているので、あるいは彼女が撮影した風景かも知れない。場所も日時も撮影者も不明。そんな写真がたくさんある。
ときおり夢を見る。故郷の福岡の地下鉄に乗り、新宿を経由してパリのクリシーの駅で下車すると、そこは南仏のカルカソンヌの城壁の中で、城壁を出ると銃弾の音が響き、サラエボの光景が広がっていたりする。夢は誰しも乱脈なものだろうが、私の夢の乱脈さは何だか少しさびしい。或る土地を愛し、そこにしっかり根を下ろせなかったさびしさを目覚めたときに感じる。いつの日か、訪ねたことのある土地を再訪したいと思うのだが、それが何処だったのかさえ分からない淡い喪失感とワンセットになっている。
ミディ運河
本宅のカヴァーフォトを更新。我ながら近頃、真面目である。
この写真を撮ったのは数年前の冬の終わり。中世最大の城郭都市カルカソンヌへ向かう橋の上から使い捨てカメラで撮影。黄昏時の暗い光線だったにもかかわらず、橋の手すりを三脚替わりにしたおかげで手ブレなし。使い捨てカメラも莫迦にできない。
ミディ運河は一九九六年に世界遺産に指定されたらしい。地中海に面したトー湖から大西洋へ流れ出るトゥールーズのガロンヌ河へとつづく、全長二四〇キロにおよぶ長大な運河である。十九世紀に鉄道運輸にその座を取って代わられるまで、地中海沿岸と大西洋沿岸を結ぶ貴重な輸送ルートだった。
この運河の存在を教えてくれたのは飲み友達のT教授。鉄道史が専門で、なんちゃない研究論文を書いて(失礼)JRから助成金を巻き上げ、その金でフランスで呑んだくれるというロクデナシ仲間である。T教授が南仏の我が家へ遊びにきたおり、ミディ運河を見学に行かないかと誘われた。そんなものがあるなんて知らなかった。いや、目にしたことはあったはずだが、ただの河だと思っていたのだろう。